群馬県屋根瓦工事組合連合会
屋根について
瓦の基礎知識
ギャラリー
信頼できる加盟店
組合の活動
青年部


トップページヘ
>>トップページへ
瓦の基礎知識

瓦の性能 | 瓦の歴史 | 瓦の種類

 瓦の歴史

   瓦の語源

現在判っている瓦の起源は、約2500年前の古代中国にさかのぼります。時の思想家、墨子の書物に、「瓦屋」という文字が記されており、これが瓦葺きの家を示すと言われています。
「瓦(グワ)」という字は中国で生まれた象形文字で“粘土を固めて焼いた土器”の総称です。かまどの周囲の土が燃焼により強くなっていることを発見した古代中国の人々は、住居の壁や床など強度を必要とする部分に粘土を塗り、直接火で焼き固めていたといいますから、これが瓦という建築材料へ進化していったのではないでしょうか。

   瓦の起源

縄文〜弥生時代
縄文式土器や弥生式土器、さらに古墳時代の土師器(はじき)などの赤焼き土器は、酸化焔(さんかえん)による製法で焼き上げられもので、古墳時代には、日常生活に使う土器のほか、古墳の回りにたくさんの埴輪を飾ることから窯が築かれたようである。

【伝来】
瓦がいつ、どこで造られるようになったかは明らかではありませんが、現存する最古の瓦は、中国の陝西省岐山県にある西周初期の宮殿遺跡から出土した半瓦当を持つ瓦とされ、今から2800年前、日本では縄文時代後期にあたります。

日本書紀によると、瓦が日本に伝来してきたのは588年、百済(古代の朝鮮半島南西部にあった国家)より「僧などとともに、寺工(てらたくみ)、鑢盤(ろばん)博士、画工とともに瓦博士4名が渡来した」と記されており、彼らとその指導を受けた日本の職人の手により、法興寺(飛鳥寺)が造営されたことになります。この製作技術は窯の入口を閉めて焼く(還元焔=かんげんえん)方法によるため、金属製の音を出す硬質製品に仕上がり、須恵器(すえき=陶器とも書く)と呼ばれる焼き物である。

こうした須恵器は、7世紀頃の群馬県内でも焼かれていたようで、以下の地域から須恵器の窯が発見されています。

 ・東毛・・・太田金山丘陵
 ・西毛・・・藤岡市日野、吉井町多比良、安中市下秋間
 ・北毛・・・月夜野町洞

飛鳥時代
仏教文化が盛んになると、寺院建築が始まると大量の屋根瓦が必要となりました。ことに上野(こうずけ)国分寺、国分尼寺などが造営されると1つた2つの窯ではまかないきれず、群馬県内各地の埴輪窯などでも瓦が焼かれるようになっていきました。

奈良・平安時代・鎌倉時代
群馬県内および日本国内において国産の瓦文化が始まった後、奈良時代には、唐招提寺金堂・講堂、東大寺法華堂、法隆寺東院礼堂などの建立があり、群馬での瓦の生産も盛んになっていきました。鎌倉・室町時代の瓦も、由緒ある古寺なら見ることができます。

しかし平安時代末期からは尾張・美濃方面からの移入品に頼るようになり、群馬での生産はほとんど途絶えてしまいます。また、最澄や空海によって伝えられた密教が盛んになり、寺院は山中に造られたため、瓦の製造や運搬が難しく、以前からあった檜皮(ひわだ)葺きや柿葺きが選ばれ、その影響で、平地の寺院にも檜皮が好んで使われるようになり、日本国内、瓦の需要と生産量が減っていきました。

過渡期を迎えたのは鎌倉時代。その頃の武士は質素だったため、幕府の政庁にも瓦は使われませんでしたが、新しい寺院の建立や戦乱で炎上した寺院の再建などで、瓦の需要は復活しました。

室町時代・・・燻し瓦の登場

室町時代は瓦の発展期とも言えます。それまで、瓦の滑り落ちは軒先の瓦に釘を打って防いでいましたが、釘の腐食により瓦が割れたり、修理のとき瓦を破損しなくてはなりませんでした。ところが、法隆寺の瓦大工だった橘吉重が釘を使わなくても滑り落ちない軒瓦を考案、瓦の歴史で画期的な発明でした。また、この時代には、これまでになかった形の役瓦(やくがわら)、現在でも使われている本瓦葺(ほんがわらぶき)の瓦が完成したとされています。

安土桃山時代には、安土城築城のため、織田信長が明(今の中国)の人物、一観に瓦の製作を命じました。この時、焼き上げた軒瓦の前面には蒔絵の技術を応用して金箔が貼られていたといいますから、かなり豪華な瓦であったと想像できます。この時、燻(いぶ)し瓦の製法も伝えられ、それまで不揃いだった瓦の色が、どれも同じ黒一色に焼かれるようになりました。

この時期は戦乱の世であったため、瓦の需要も著しい伸びを見せましたが、建てては焼かれ、焼かれては建てての刹那的なものだったので、造瓦技術も落ち込み、薄く小型化した瓦が多くなり、平瓦などの谷は一段と浅くなっていきました。

江戸時代〜現代へ
江戸時代に入ると瓦屋根は本瓦葺(ほんがわらぶき)といって平瓦(ひらがわら)と丸瓦(まるがわら)をセットで組み合わせて葺きましたが、重量がかさみ建物自体の構造がしっかりしていないと採用は難しく、また幕府より禁令が出ていたため、城址や寺院、武家家屋にしか使われませんでした。

この頃の江戸の町は草葺き屋根や板葺き屋根の家屋が密集しており、火事が出れば大火となっていました。こうした状況に、8代将軍 吉宗が目安箱の声に応え、南町奉行大岡越前の熱心なはからいにより、町人の家にも瓦葺き屋根が普及していきました。この普及には、新しく開発された瓦の存在があります。

「西村由緒覚書」によると、近江の大津(現在の滋賀県大津市)の瓦工で、三井寺の御用達を務めていた西村半兵衛が、「軽くて格安の瓦を造りたい」と若い頃から思案を重ね、延宝二年(1674)に簡略瓦を発明したと書かれています。

半兵衛は、江戸には火除瓦(ひよけがわら)というのがあると耳にして、わざわざ江戸まで見に行ったものの、平瓦を並べただけで、合わせ目の漆喰や下に敷かれている土で雨を防いでいる不完全なものだったため、丸瓦と平瓦を一枚とすることを考えつき、切込みの工夫なども行い、10年以上かかって完成したといわれています。

この新しく開発された瓦は「江戸葺瓦」「簡略瓦」とも言われていましたが、従来の瓦と区別するために、従来の瓦を「本葺瓦」、改良された瓦は「桟瓦(さんがわら)」とする名称も生まれました。

明治初期、横浜ではフランス人ジェラールが洋館に合わせるためフランス瓦を製造、大正時代にはスペイン産のスパニッシュ瓦が輸入されると、国産の瓦も日本の風土にあった形、より良い釉薬(ゆうやく/焼き物の表面をガラス質にするうわぐすり)の開発・使用による色の変化、また生産性をアップするための焼き窯の開発など、多様化するニーズに応えるための努力を続けてきました。

いまこそ、群馬の瓦
東国文化発祥の地として歴史と伝統を誇る群馬県において、瓦とは、地域・産業・文化などあらゆる面で深い関わりがありました。城下町の武家屋敷・町家・商家群、宿場町の民家・土蔵など瓦屋根の建築物は数多いです。そして近年では、商店街店舗の屋根はもちろん外壁や床面、歩道への利用もあります。また、群馬県内の公共施設にも瓦が溶け込み、個性ある町づくりに貢献し、それはまさに「群馬の町のシンボル」なのです。

私たち、群馬県屋根瓦工事組合連合会では、群馬県産の瓦をはじめ、瓦や瓦葺き屋根の良さを、より多くのみなさまにお伝えするべく、日々、努力と訓練と研究を重ねております。

瓦の性能 | 瓦の歴史 | 瓦の種類
 
Copyright(C) 2007 GUNGAREN All Right Reserved.
トップページへ お問い合わせ